大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和62年(あ)393号 決定

本籍

兵庫県小野市上本町二二三番地の四

住居

神戸市垂水区多聞町小束山八六八番地の二五六

医師

藤原弘久

昭和一二年一一月二〇日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和六二年二月二七日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人森智弘の上告趣意は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 四ツ谷巖 裁判官 角田禮次郎 裁判官 髙島益郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 佐藤哲郎)

昭和六二年(あ)第三九三号

○上告趣意書

被告人 藤原弘久

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和六二年二月二七日大阪高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人より申し立てた上告の趣旨は左記の通りである。

昭和六二年五月一八日

右弁護人 森智弘

最高裁判所

第一小法廷 御中

第一、第一審判決並びに之を肯認し、本件について有罪の認定をなした原判決は判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、ひいて法令の解釈適用を誤った違法があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するもと思料する。

一、原審裁判所は「所得税ほ脱の犯意について」次のように判示している。

即ち、

昭和五〇年度から被告人の依頼により被告人方の税務・決算事務を担当していた税理士平井新佐(以下平井という)は、被告人からは「所得をそのまま申告すると未だ年も若く、開業して未だ日も浅いのに、須磨税務署管内の医師のうちで高額所得者となり、垂水の医師会内部でとやかく云われる恐れがあるので、所得額を昭和五三年度については四、二〇〇万円前後、昭和五四年度については四、八〇〇万円くらいで申告して欲しい」旨の指示があり、租税特別措置法二六条の所得標準率で計算すると、所得額は、被告人の指示する右金額を上回るので、収入の一部を除外し、仕入や諸経費の水増しをする等の操作をした上、青色申告するしかなかった。昭和五五年度についても、右同様被告人から同年度の所得を五、三〇〇万円くらいで申告して欲しい旨の依頼があったが、昭和五五年一〇月ころ、税務署から、さきに未提出となっていた被告人の財産債務明細書を提出するよう指示があり、いずれ近い内に税務署の調査が行なわれる可能性もあって、平井としては昭和五五年度の本来の所得額は一億三、六〇〇万円くらいの計算になるのに、これを被告人が云うように、五、三〇〇万円で申告するのはあまりにも差額が大きいので、被告人に対し「一寸危ないんじゃないですか、低過ぎてやりにくいですね、今年は税務署の調査もあると思われるので一億くらいにしておいた方がいいんじゃないですか」と云ったが、被告人は「ばれもとでいきましょう」と云うので、平井はこれに従い所得額を過少に計算した所得税確定申告書を作成したものゝ税理士としては自信を持てないので、同申告書の作成者署名欄には自己の署名はしないまゝ税務署に提出した、

旨認定し、一審判決は正当であるとし、これは平井証言及び被告人の大蔵事務官に対する質問てん末書(以下てん末書と略)・検察官に対する供述調書(以下検事調書と略)等によって認定されると云うのである。然乍ら、原審裁判所の右認定は、被告人や妻藤原恭子の公判廷における供述・証言を余りに無視し、著しく信用性に欠ける平井証言を過信し、任意性もなく、況んや信用性等全くない被告人の捜査段階における質問てん末書や検事調書を鵜呑みにしてなされたもので、以下述べる如く、原判決は採証法則を誤り、ひいては重大な事実誤認を犯している。

二、原審裁判所の認定の誤りは、本件事実認定の基本的焦点とみられる、税理士という有資格者が何故かかる過少申告をしたのか、という疑問について深く洞察せず「指示されたので従った」という、税理士という資格ある者の言動としては極めて不自然且つ非常識な証言をまにうけたもので、ここに先ず重大な事実誤認がある。

(一) 税理士法第一条(税理士の使命)に税理士の使命と倫理が定められ、而して法は、税理士の資格要件・欠格事項を厳格に規制し、国家は、納税義務者が信頼して税務に関する代理等を依頼することのできる能力と見識を持つ資格者として税理士を承認する。

現代社会における市民生活と法や行政とのかゝわりは、極めて複雑且つ高度の専門的知識を要し、それ故に、国家は専門的知識を要する領域において、市民の権利擁護に誤りのないよう国家の法の適用・行政作用が円滑且つ公平になされるため、市民と国家機関との間に立って市民の代理事務を管掌する有資格者を厳正に選択・承認し、一方国家が認めた有資格者に対し、市民は絶大の信頼を置き、又置かざるを得ない。

而して、有資格者に共通するのは「信頼」という道義的・倫理的命題であり、故に税理士法は特に「信頼」という職業的使命観を法的に税理士に課している。

被告人は、税に関し無知に等しく、それ故に資格を有する税理士を信じ、そして自己の経理・税務の全てを依頼し、納税に関する全てを託した。

被告人は、一審及び原審公判廷において真実を訴え、税理士を信頼し一切を税理士に託し、適正な確定申告がなされたものと信じて来たもので、過少申告・脱税がなされたことは全く知らなかった、と無実を主張したが、原審は、この被告人の切実な無実の訴えに耳を貸さず、平井税理士の、被告人から頼まれてしたこと、との極めて信用性を欠く証言を深い洞察もせず措信できるとしたのは、余りにして偏見に満ちた判断で採証法則に著しく反する認定である。

本件における事実認定の焦点は、究極的には、税務の専門家で税やこれに関する法令・税務当局の対応等全てを知り尽くし、世事に長ける税理士の証言と、税理士を信頼して全てを託した税に無知で世事にうとい善良な医師の公判供述の、いずれを信じるのか、ということに帰する。そして、究極的評価に到達するためには、単に個々の捜査段階における供述や証言のみをとらえた評価に止らず、被告人の人格的側面、何故平井税理士に委任し、全幅の信頼を寄せたか等の背景的事情に心証形成の視点を向け、その上に立って平井税理士の本件税務処置の実態を検証し「税理士は何をしたのか」「何故か」その姿勢と実像を可能な限り洞察究明しなければならない性質の事件であるのに、原審裁判所は単に個々の供述や証言のみにどう着し、「何故か」という本件の真の焦点を看過し、形式的認定操作に陥り、被告人が指示したこと、と認定したのは、偏見と予断の下になされた重大な事実誤認である。

(二) 原判決は、昭和五三年度について四、二〇〇万円前後、昭和五四年度ちついては四、八〇〇万円くらいで申告して欲しい旨の指示があり、平井は収入の一部除外等の操作をした上青色申告するほかなかった、旨判示するが、こゝで重大で率直な疑問は、仮に指示されたとして、何故過少申告の依頼に対して税理士として依頼者を戒め、或いは諫言を聞き入れぬ時は依頼を断らなかったかという疑問である。

そうすることこそ税理士の職業倫理に則る処置であり、又一般的に当然の処置である筈である。

しかも税理士は、税理士法第三六条(罰則第五八条)によって、かゝる徴税を免れることの相談、指示に応じてはならないと、固く禁じられており単に一依頼者に過ぎず、又付き合いすら長くもない依頼者から、頼まれたと云うだけで唯々諾々と特段の事情もなく、かゝる危険を犯すことは到底あり得ないことである。

その特段の事情は全く原判決では触れられてもいないばかりか、原判決は証拠に基く判断でもなく漠然と「青色申告するほかなかった」と独自の見解を示しているが、「ほかなかった」とは、それしか方法がなかった、と云うに等しい評価であるのに、平井は一審公判において、なぜ断らなかったとの質問に対し「別にこれという理由はございません」と証言し、更に修正申告でもすればことが足りるというふうに甘くお考えになってませんでしたか、との問に「そうゆうこともあったと思います。そうです」(一審第八回公判調書)と答えているのである。

要するに、これ位の過少申告であれば修正すればすむ、という甘い判断のもとになしたと云うことである。特に、昭和五三年度については、医師は租税特別措置法二六条(以下措置法二六条と略)により所得標準率は二八パーセントの時代であり、平井の原計算(平井の操作前の計算)による同条を適用しての算出所得額五、九〇〇万余、即ち申告されるべき右所得額を前提にして、専門家である平井が当局に調査されても修正すればと判断した適当な金額を差し引いた金額を極めて大ざっぱに算出したのが同年度確定申告所得とみられるのである。

かような判断は、全く税に無知な被告人には到底考えられぬことで、四、二〇〇万という数字に至っては実に玄人の発想であり、四、二〇〇万と百万単位に限定した数字を素人が云える筈もなく、思いもつかない数字である。

原審裁判所は、四、二〇〇万前後と限定したのは、所属医師会で高額所得者となり、医師会内部でとやかく云われる恐れがあるので四、二〇〇万前後にして欲しいと指示した、と判断しているが、何故四、二〇〇万という数字が出てくるのか誠に奇妙であるばかりか、昭和五二年度における須磨税務署管内医師所得番付によると、所得一億を越える医師二名七千万以上一名、六千万以上二名、五千万以上二名(クリニックマガジン弁一四号証)で、被告人の五三年度実質所得五、九〇〇万余円はトップにはほど遠い所得であるばかりか、四、二〇〇万という数字の出てくる根拠は全くなく、ただ、平井が捜査、公判において、平井が現実に申告した所得が四二、七九五、五九〇円であったことを前提に、四、二〇〇万前後と指示されたと供述したに過ぎないとみるべきである。

このことは、被告人が昭和五四年、藤田重夫から自宅を購入した際、購入手続・納税一切を平井に依頼し、平井に指示されて税金分として七〇〇万を平井に預けたが、本件査察の際、査察官より平井の誤りを指摘され、過渡分六〇万返して貰うよう助言され、被告人は、はじめて事の次第を知り、その後平井より六〇万返して貰ったという経緯で明らかな如く、被告人は全く税に無知で、平井の指示に従っていたもので、この被告人が平井に指示することはあり得ないことである。

(三) ところで、原審裁判所は、「二、諸経費について」において、「原審証人平井の経費についての供述中、検察官主張の額を越える額の経費があったと思う旨の供述部分は、同人の収集した不十分な資料を前提とするものであって、同人の右供述部分は措信することができない。」と判示したことは、換言すれば、原審裁判所も申告の基礎となる平井原決算(平井操作前の決算)は、青色申告に必要な資料の収集が不十分で、著しく正確を欠き、到底青色申告の態をなしていないと認定したことを意味する。

昭和五〇年当時この種開業医の殆どが措置法適用申告であったのに、何故平井が殊更青色申告を選び、これを継続したかについて、平井は「青色申告をしていても、青色申告による所得が標準率より上回った場合は標準率によって申告すればいいという特典があったので、一応税務署の要望する青色申告をした。」(一審第八回公判調書)と青色申告したのは、必要があってなしたことでなく、単に税務署の要望に添うためと証言する。

然し、それだけの理由でなく、税理士として依頼され、通常の措置法二六条適用申告では、頼まれがいがない、格好がつかないという気持があったと見るのが自然である。

ところが、青色申告と云いながら、青色申告の基礎となる資料の収集は怠り、原決算は極めて好加減になされている。

例えば、五三年度分の仮決算書も作成せず、五四、五五年度分については月別計算書もなく、更に経費の把握は極めて不十分で、例を五三年度分にとるとして、この期は原仮決算書がないので、久保田栄美子作成の月別一覧表により、原決算の実態を検証するしか方法がないが、之によると、棚卸しは全くしておらず、減価償却資産の把握もなされず、個々の経費課目をみても、国税局認定(原判決認定)の額より平井把握金額の方が少ないものが散見される等実に不正確で、これは五四年、五五年度も概ね同様である。

このことは、平井は一応青色申告はする、そのため一応の資料はある程度そろえるが、正確な資料の収集、之に基く適切な決算申告は元々考えていなかったと認定するのが、証拠評価の帰結であるべきである。

かように平井が申告に要する資料の収集を怠り、不正確な計算しかしていなかったことは、被告人は全く知らず、被告人とは何らの係りもなく平井の安易な判断でなされたものであることは明らかである。

右の如く、元々正確な資料の収集、これに基く決算申告を考えていなかったと云うことは、要するに、青色申告というものの、その内実は措置法標準率を前提もしくは念頭においた適当な額の算出による青色申告、即ち、実際の収入金を前提にして、措置法標準率で算出される所得を土台にして、これより低い額を適当に算出計上し、青色申告しようとした平井の安易な態度、顧客に対しサービスしようという態度があったからと評価するしかない。

而して、こうした判断からなされた五三年度における平井操作前収入を前提とした措置法二六条適用所得と、平井が操作した後の確定申告所得の差は約一、六〇〇万余であり、平井にはまさかの場合修正すればすむという安易な判断があったことは前掲証言において平井も認めるところである。

ところが、平井の予期せぬ事態が発生した、それは措置法所得標準率の大幅な変更であった。

これらの事実と経緯を洞察するとき、五四年以降平井のとった税務処理は次の如く判断される。即ち、昭和五四年度措置法所得標準率は四三パーセントに変更され、平井は実質収入がほぼ前年度と変更がないことから前年度の公表決算額を大きく変える事もできず、なんとかなるだろうという安易な判断のもとに再び架空仕入れ操作等による申告、ただ前年度よりやや申告所得を増額した申告をなしたが、更に追い打ちをかけるように五五年度の標準率が四八パーセントになるに至って、措置法適用所得と従来の方法による操作決算所得の差が益々大きくなり、しかも五五年一〇月頃、須磨税務署の調査を知った平井は、その後の事態を確知し、ここで適正申告すればそれ迄の過少申告が明るみに出、その責任を問われることになる、再び従来同様の操作決算をなし、それが被告人の指示によるものとするため、従来の操作の延長上の処理をなすと同時に申告書に作成者税理士の署名・押印をなさなかった、とみるのが、全証拠評価の帰結というべきである。

被告人は平井より申告所得の説明を受けたこともなく、三月一五日前、平井から被告人に電話で、この金額を納付するようにと税額だけの通知があり、その指示された金額を妻が銀行振込するだけで、被告人は確定申告書はもとより、申告決算書等申告に関する計算書類を見せられたことも説明を受けたこともなく、又、確定申告書に署名・押印したこともないのであり、被告人には過少申告の認識はなく、况や平井に過少申告を指示したこともないのである。

原判決の判断の誤りは、右指摘の過少申告と措置法との重大な係りと、これに関連する事実関係について洞察しないばかりかその判断すらなさず、そのため信用性のない平井証言を過信し、被告人のてん末書、検事調書の任意性、信用性の評価を著しく誤る等事件全体の証拠評価を誤ったことにある。

三、原判決は、一審証人平井、同久保田の証言は符合しいずれも措信できると判断し、更に被告人の捜査段階において作成された質問てん末書、検事調書もその信用性を否定すべき理由はないと判示しているが、右判断は以下述べる如く、著しく採証法則に反し、重大な証拠の評価を誤っている。

(一) 先に詳論したところは、全て平井証言、久保田証言に信用性のないことの論証でもある。

先ず、平井証言の不自然さは、五二年度の収入や所得はどうであったのか、又平井はどう処理したのかという五二年度に関する平井の証言が極めて曖昧であるのに、一年違いの五三年度のことになると態度は一変し証言は異常に詳細になることである。

平井は、「五三年度、所得を四、二〇〇万前後でしてくれということです。須磨区の医師会ではトップぐらいになるといろいろな事情があって困るということだった訳です。」等と証言するが、では五二年度はどうであたのか、どう云われたというのであろうか、しかも前掲五二年度高額所得者一覧によると、須磨管内ではトップは一億を越えているばかりかそこに被告人の氏名はなく、被告人は当時所得のランク等全く知らず、又「四、二〇〇万前後」と具体的な所得の数字を、所得の概念すら理解しない被告人が云える訳もなく、更に四、二〇〇万という数字の出てくる根拠も全くないのである。

更に平井証人は、右証言に関連して「被告人方に所得計算書、月別計算書、決算書を持参し説明した」旨証言するけれども、右の書類自体元々無いものが多いばかりか、あってもずさんなもので、到底依頼者に見せられるようなものでなく、かかる書類を被告人方に持参したことも被告人に説明したこともないのである。

一方証人久保田は、平井方に雇われる使用人で、雇主に不利になる証言はできない立場にあり、しかもその証言内容も極めて曖昧且つ不自然なもので、到底信用性はない。

以上の如くで、平井証言は、客観的事実に反するばかりか、その証言内容に多くの矛盾や不合理、不自然さがあり、自己弁護、責任回避に終始し、真実を語るものでなく、その信用性はなく、到底断罪の資料とはなし得ないものである。

(二) 原判決がほ脱の犯意を認定するについて、最もその証拠として評価したとみられるのは、昭和五六年六月三日付質問てん末書であるが、同てん末書によると「五五年分について、特別措置法を適用しても一億ぐらいになる旨説明を受けた。各年度の所得金額について、税理士から一億以上になると聞きながら・・・五三年分も四二、七九五、〇〇〇円しか申告していないとのことですが、やはり所得を二分の一以下にしていると思います。」等と記載されているが、五三年、五四年分については措置法を適用すれば、という記載はどこにもない、若し之を記載するとすれば、五三年度措置法適用所得は、収入の二億円として単純計算で五、六〇〇万余となり「所得を二分の一以下にしていると思う」とか「各年度税理士から所得は一億円以上になると聞いた」との供述記載が、余りに実際に反し、矛盾に充ち、非常識な記載となり、犯意を認めさせる調書としての体裁をなさなくなることから記載できなかったものであり、専門家の税理士が所得は一億以上になると云った旨の記載に至っては、もはや取調官の創作であることは明らかであり、更に検事調書(五七、二、二三付)に至っては「五三年度から収入が急に増え、二億円位だろうと思った、所得としては一億二、〇〇〇万位と考えていた」と、まことしやかに記載されているけれども、措置法の特例を受ける医師が一億二、〇〇〇万と答える訳がなく、右供述記載は検察官の主観的意見を反映させたものであるに過ぎず、被告人の供述では決してなく、これら捜査段階における被告人の供述調書は、その信用性を著しく欠くものであって、到底断罪の資料とすることは許されない。

原判決の重大な誤りは、右の如く措置法の存在を全く無視し、矛盾だらけで取調官の強引且つ実態をおよそ無視した押し付け、創作が一目瞭然たるてん末書、検事調書を深く洞察せず、外形的ほ脱金額の額に目を奪われ偏見を抱き、右供述調書を短絡的に鵜呑みにし、疑わなかったばかりか疑おうとしなかったことである。

右供述調書に記載のある所得一億とか一億二、〇〇〇万という額は、措置法を度外視した金額で、五三年度における実質所得、即ち、容法の所得を検証する場合、その時点に立ち帰り、その時点において法の容認する実質所得は幾らであったかを確定し、これを前提として全てを論じなければならないことは理の当然である。

而して、五三年度の容法の実質所得即ち平井税理士が全く操作をなさず税理士が把握した収入金を前提にした措置法適用所得は、原判決も認定する如く五、九〇〇万余であり、この金額が税理士として将に申告すべき所得金額だったのである。

従って、所得は一億或いは一億二、〇〇〇万ということを前提にした如何なる評価、判断も、その前提が誤ったものであるから失当ということに帰すのである。

かように、原判決は証拠の評価を著しく誤り、重大な事実を誤認している。

第二、第一審判決並びにこれを肯認した原判決は、その判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと思料する。

一、原審裁判所は「訴訟手続の法令違反の主張について」において、被告人の捜査段階で作成されたてん末書、検事調書は、具体的且つ詳細で自然であり、その任意性を疑うべき状況下で作成されたものとは認められない、又藤原恭子の検事調書は脈絡もあって自然であり、その特信性は十分肯認することができると判断している。

然乍ら、以下述べる如く被告人の供述調書は任意性を欠き、又恭子の供述調書は特信性を欠くものであって証拠能力はなく、これを有罪認定の証拠とした一審判決及び之を肯認した原判決には採証法則を誤った違法があり原判決には訴訟手続の法令違反があり、これが判決に影響を及ぼすこと明らかであるから、この点よりも破棄を免れない。

二、被告人の質問てん末書・検事調書の任意性・信用性のないことは以下述べる如くである。

(一) 被告人が大阪国税局より脱税容疑で査察を受けたのは昭和五六年六月三日午前八時ごろである。

被告人にとっては将に青天の霹靂で、その狼狽と驚愕は言葉に絶し、何がどうなったのか、何故、何のため、と全く状況を理解することもできぬまま第一回目の質問てん末書が作成されたが、その後被告人は、次第に事態を認識するに至って真実を明らかにし、国税当局者に真相を理解して貰う必要のあることに気付き、昭和五六年一一月二二日大阪国税局における取調べに際し、被告人は事実を明らかにしようと努め真実を訴えたが、被告人の真実の主張はある程度録取されたものの、肝心な部分で被告人の供述と異る事実が歪曲された調書が作成された、それが昭和五六年一一月二二日付てん末書である。

ところが、昭和五六年一二月二四日大阪国税局における取調べにおいて被告人は脱税の認識のみならず、平井税理士との関係等について、恰も被告人が税理士に具体的に脱税を依頼したかの如き途方もない虚偽の供述をなし、翌年二月、検察官の二度に亘る取調べに際して同趣旨の供述がなされた。

(二) 大蔵事務官(以下査察官と略)に対する虚偽の自白について

ところで、六月三日、査察官多数が被告人方に来居した際、被告人は何故かかる調査を受けるのか事態の認識に欠けたばかりか、査察の意味するもの、査察の結果刑事事件に発展するという理解も認識も全くなくただ診療所へ行くことも禁じられ、患者を看ることも許されないといった尋常でない税務調査に驚愕・狼狽する状況下で、白色申告と青色申告の区別すら判らず、且つ又所得とは何か、という所得概念の理解すらない、いわば税に全くの無知の被告人は、ある重要なことを詰問されてもそれに対する答え如何による利益・不利益の判断すらつかないまま、事実に反する不利益な答をなす等、自己を防御する能力も、そうした気持すらないまま査察官の高圧的な誘導に迎合した。

被告人としては、ともかくこの異状な調査から一刻も早く解放され、患者を看たいという一心であり、真実を述べるという気力もなく、又真実を述べなければどのような結果が待っているかという判断もつかない状況下で、査察官の誘導に迎合して作成されたのが六月三日付質問てん末書である。かようにして、右調査における供述は真実を伝えるものでなくほ脱認識に関する供述、税理士との関係等に関する供述部分は虚偽であると言わねばならない。

右査察を受けた後、被告人は、平井税理士の態度から次第に同税理士に疑惑を抱き、遂には同税理士を解任し、新たに宮尾税理士に依頼する等したが、これらの経緯の中にあって、事の重大さをもおぼろげながら感知するようになり、査察官に真実を述べなければと思うに至り、昭和五六年一一月二二日大阪国税局に出頭した際、査察官に対し被告人は真実を述べたが、被告人の真実の主張はある程度録取されたものの、なお肝心な部分で被告人の主張・供述と異った記載がなされた、それが一一月二二日付てん末書である。ところが、次に国税局に出頭する昭和五六年一二月二四日の前日ころに至って、意外なことから事情は一変する。

その経緯や被告人の心境について、被告人は一審公判廷において次の如く供述している(一審第二六回公判調書)。即ち「取調べの前日か、前々日の夕方、宮尾先生が非常に悲壮な感じで私方へこられ、税理士の責任を追求せず、あんたの責任だけでこの問題を早く解決した方がいい、このままの状態でいくと大きな病院の院長みたいになる。逮捕されたらいかん、このままの状態でいくなら私はこの問題から手を引かして貰うと云って慌ただしく帰られた。私は、若し逮捕でもされるようなことになったら、中学受験を前にした長男、ノイローゼ気味になっている妻をかかえ、家族は崩れてしまうことは勿論のこと、診療面も当然迷惑をかけ、診療所もどうなるか判らない、と苦しみ悩んだ末、宮尾先生の助言に従って、私の責任ということで解決することが一番いい方法だろうと断腸の思いで決心した。そして、その晩宮尾先生の自宅に伺い、先生の云われるようにしますので宜しくお願いします、と云った。その翌日ころ大阪国税局に宮尾先生に伴われて出頭し、査察官の云われることにはいはいと答えた」と云うことである。

右を要するに、一一月二二日の査察官の取調べに当って、真実を述べよう、真実を述べなければいけないと思い、査察官に真実を訴えようと努力した被告人であったが、右のような事態に遭遇し、家族を思い、患者を思い、逮捕という不安におののき逮捕を免れることが出来るのなら、嘘でも全て被告人は判っており、税理士の責任ではないと虚偽の供述をするしかないと思いつめ、査察官の誘導に迎合しようと決心した、とみられるのである。

而して、査察官の云われるまま、これに迎合するしかないという心境になって、査察官の誘導に迎合して作成されたのが一二月二四日付質問てん末書である。

その質問てん末書を見ると、余りにして知り過ぎたことになっており、前出の一一月二二日付てん末書と対比しても、その供述内容は極端に認識が強調され、一見して不自然・不合理であり、如何に査察官に云われるまま「そうです、そうです」と答え迎合して作成されたものであるか窺い知ることができる。

敷えんすると、五七年一月一四日付てん末書も同様である。

(三) 検察官に対する虚偽の自白について。

続いて、検事調書であるが、被告人は検事調べについて、その心境と経緯を次のように一審公判で供述している。即ち「検察庁へ行く時にも宮尾税理士や国税の人から、国税での供述と矛盾のないように検察庁へ行って話しをすれば、検察庁の取調べも一回か二回で早く済んでしまうと云われていたので、全てはいはいと答えようという気持で検察庁へ行った。二月一八日午後検察庁へ出頭し、検事の取調べを受けたが、筋書きが出来ていて、質問事項らしいものを半紙に書いていて質問され、はい、はい、と答えたが、どうしてもイエスと云えないと処があると突如検事の表情が変り、近藤病院の例をとりあげられる等され、それ以上主張できず、云われる通りハイハイと答えた。二月二三日の検事調べも同様であった」旨供述する。即ち、被告人は検察官の取調べに際し、真実を主張すれば再び逮捕という事態になることを恐れ、国税同様の嘘を繰り返すしかないとの心理状況にあって取調べられ、検事の誘導に迎合して行ったもので、査察官の取調べの際における心理的影響は継続している。かくして作成されたのが五七年二月一八日付検事調書、二月二三日付検事調書である。

(四) 以上の如く、右質問てん末書、検事調書は、いずれもその内容は明らかに虚偽であり、而もそれは取調官の誘導によって誘引されたものである。

誘導尋問等の誘引的方法による自白の証拠能力については、その任意性はもっぱら虚偽排除の観点から論ずるのが至当である。而して、右自白調書は、その内容明らかに虚偽であり、その虚偽供述の経緯と心理的側面を些細に検証するとき、右自白調書は不任意の自白として排除されるべきである。

敷えんするに、既に論証した如く、右てん末書、検事調書に信用性のないことは敢て云う迄もない。

二、藤原恭子の検察官に対する供述調書の特信性・信用性のないことは以下述べる如くである。

藤原恭子は、平和で平凡な医師の妻であるところ、全く思いもよらない本件査察で夫と共に査察官の厳しい取調べ、追求に遭い全く予期せぬ事態に遭遇して、驚愕の余り極度の不安感に襲われ不眠症に悩まされ、精神的にも肉体的にも疲労困憊した中で査察官に引き続く検察官の取調べを受け、査察段階より共犯者呼ばわりされ、夫が逮捕されるかも知れないという不安、若し逮捕されると多くの患者はどうなるのだろうという危惧感に苛まれ検察官より「あんたは知ってたんじゃないか。そんな常識からして考えただろう」等の洞喝・誘導され、右の如き精神状態の中でただ検察官に対する恐怖感から誘導に迎合したものであって、かかる状況の下で作成された検事調書に特信性はなく、况んや信用性はない。

以上の如く、第一審判決並びに之を肯認した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな重大な事実の誤認、ひいて法令解釈適用の誤りがあり、更に訴訟手続の法令違反があり、之を破棄しなければ著しく正義に反すると認められるから、刑事訴訟法第四一一条一号、三号によって、これを破棄されるよう求める。 以上

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